つよきす論の布石(?)

・発話は意味内容のみでなく、その発話の為された状況にもその意味を左右される。前後の発話との意味内容の関わりや時間的間隔といった文脈に属する要素のみならず、身振りや表情といった身体的な要素もまた発話の意味を定位する上で重要な役割を果たす。

・まあ要は同じ意味内容の発話であってもタイミングやら話の流れやら発話者の表情やらで違う意味を持つよね、ってだけの話なんだけども。

・ここで、意味内容を極端に重要視した発話について考えてみる。発話の意味内容にのみ注目したコミュニケーションとは即ち、外部の要素の削ぎ落とされたシンプルな発話の応酬か、或いは個々の発話に付随した外部の要素に見ないふりをして/または気付かずに行われるコミュニケーションである筈だ。現実的には前者のような会話は想像しにくく(ロボットの発話について考える時、この種の極端さは現出するだろう)、後者のような会話について想像する方が容易だ。

・後者のような会話とはつまり、「発話の意味内容のみを信じる」という種の誠実さが要求される会話である。発話の背後にどれだけ真意が透けて見えようとも、敢えて忖度することはせず、ただ相手の主張した通りのもの以上は受け取るまいと務めるような対話。そこには、敬意に満ちた距離感が存在する。

・直感的には鍵ゲーのシリアスでの会話ってこうだよなーというのがあるんだけどテクストに当たって引用しながら書かないとアレなのでそのうち精査したい。AIRとかそんな感じじゃなかったかしら(各々が好き勝手に個性に従って発言する、という状況がコメディパートだと狂騒的な日々の構築に寄与しつつ、シリアスパートに至った途端、断絶に満ちた空疎な距離感としてその姿を変える)。

・逆に、意味内容ではなく、周囲の文脈を極端に重視する会話について想像することもできる。何を言っているか、ではなく、どう言っているか、いつ言っているか、なにを受けて言っているか、が重要視される対話。そこにおいて会話とは文脈の操作であり、そこにはある程度の共通理解を前提とした一体感が生まれる。

・例として考えているのはゆゆ式(あの作品の場合、相手がどう考えているか、まで踏み込んで文脈を操作しているので、上で書いた以上に複雑なことをしている気はするけれど。そういう意味で、悪魔の書物呼ばわりした某氏の感覚は信頼に値すると思う。リア充的世界観の勝利)。

 

・もうちょい練りなおして叩いて伸ばせば何かに使えそうな感じの論。まだ実用性はないな。