射幸の手管(ゲームの構築について)

・単なる数字の遣り取りに過ぎない行いをそうではないと誤認させる、自分が今まさに相対している娯楽が高尚なものに違いないと感覚させる、そういった詐術こそがゲームをゲームたらしめる。ゲームにおいて何よりも大切なのはその詐術である。認識の操作の手管こそが論じるに値する。

・遊んだ人間がどう感じるかを捨象して語れば、ゲームは無味乾燥の抜け殻をそこに露呈しかねない。しかし、その事実はゲームの価値をいささかも損なうものではない。そういう立場に、僕は強く与する。

 

・本題。

・パチンコやソーシャルゲーム(のうち、特にランダム性の強く、ソーシャルなトレーディング要素以外の部分に魅力をあまり担保しないもの)の対極として「善いゲーム」を想像することは、往々にして望ましくない錯誤を招く。

・押したらランダムに報酬の齎されるボタンを設置し、確率を適切に操作することで猿に死ぬまでボタンを押させることが可能である―――という例の有名な話を聞いた時、第一に想起されるのはパチンコではあろうが、しかし同時に/即座に、ゲーム一般についても同種の射幸心を煽る仕組みはプレイヤーを虜にするうえで極めて有効である、ということに思い至らねばならない。

・射幸心を煽る仕組みを持たないのが善いゲーム―――ではなく、射幸心を煽る仕組みだけ残して他の要素を限りなく削ぎ落としたのがパチンコを含めたギャンブルである、と認識するのが少なくともベタな流れだろう。敢えてゲーム一般がそのような要素を避けて通る理由など無いからだ。

・実例を挙げる努力が馬鹿馬鹿しく思える程に、その種の仕組みは枚挙に暇がない。いくつか抽象的な例を挙げるとするなら、ハック&スラッシュ要素を持つゲームのドロップ武器収集や、命中の可否が確率によって左右される時の攻撃動作(の、特に繰り返し)、効果が完全にランダムのRPGの特技、などは確率と数値の操作によって極めてプリミティブな抽選の快楽を保証することが可能である。

・特殊な例を挙げるならば、格ゲーにおいて状況の読みを粗方終えた状況下で、期待値でしか評価できないような技のヒットの可否というものも、強く射幸心を煽るものであろう(通るか通らないか)。完全な推測であり当該作品をまともにプレイしている訳でもないので大変怪しいことを断って言うならば、鉄拳の近作はそのような快楽を強く励起する方向にデザインしているのでは、と人に話を聞く分には想像させられた。

・無論(と書くのも大概邪悪だろうが)、僕はパチンコも名作ゲームも同じだ、と主張したい訳ではない。最上段に記したように、僕がゲームに於いて最も重要であると見做すのは、身も蓋もない機構をそうと悟らせず楽しくプレイさせるための詐術、装い、虚飾に属する部分であるからだ。

・このように考えた時、ある種のゲームがパチンコのような(/ソシャゲのような)要素を持つ、とdisることの不十分さは明らかだ―――明らかだが、それはそのゲームがその点に於いて何の瑕疵も持たないことを全く意味しないことも、また明白だ。気付かせてしまっては意味がない。意識させてしまっては台無しである。そういった気付きを齎させず、自分が相対している作品の複雑さを信じ/その単純な機構に思いを馳せさせない(・・・・)、そういった詐術の巧みさを我々は評価するのだから。

 

艦これに関しては運ゲー部分が露呈している時点である程度の敗北を抱えているように思う(これは好みの問題でもあるので、あまり強くは書きたくない―――段落を分けて記述した理由)。

・単なる運ゲーを提督の手腕で何がしかの改善が齎されたかのよう誤認させ、気分よく勘違いさせてくれるようなデザインの方が正着手であったのでは、と思う。言うまでもないことだが、これはマスクデータの検証が進んでおらず、まだ検証データによってジンクスが否定されていない、初期の艦これが持っていた強さにほかならない。

・加えて言うなら、この強さが実現されていたのはひとえに過渡期の状況がゆえであり、現状の艦これがそういった美点を持っていないことは、艦これ運営の落ち度を示唆する事実ではない(敢えて言うなら、その代替としてどのような強さを確保できるよう彼らはこの数ヶ月を費やしたか、といった線で議論/検証されるべき話題であろう)。

 

*追記(8/12)

・論旨としては「ランダムネスの有無ではなく、ランダムネスの感知の可否こそが重要である」といったところになります。またそのような実装は(当然ながら)採択されうるオプションのひとつに過ぎないので、ランダムネスを/或いはその誤認を完全に排除した実装が存在することは知っていますし、特に論旨に影響するものではないと認識しています。

・本文では省きましたが、基本的にはある程度のカジュアルなプレイングを前提として考えています(RTAなどで使用されるアルゴリズムの操作を導入するとプレイヤーの質の問題に言及せねばならず、大変煩雑なため)。実際問題、全くの介入が不可能な複雑なアルゴリズムというのは、注ぐコストに得られる対価が見合わないばかりか、正にその介入が不可能という面が快楽を削ぎかねないので、採択されづらい試みではあるでしょう。

・初稿からは削りましたが、ゲームとは電源ゲームを指しています(これはこちらの注意不足だったかな)。ある程度プリミティブなパズルは状況の操作をコンピュータに任せただけの非電源ゲームであり、複雑な実装でゲームの実態を隠ぺいする、本稿で扱うような「ゲーム」とは趣を異にするものであると考えます。

整理(艦これ設定まわり)

・前提として、そもそも艦娘という存在が超常的な逸脱を果たしたものにほかならない。

・ので、艦娘という設定はそのまま呑みつつ、しかし彼女らの扱う兵器に関しては現実の物理法則やミリタリーの常識から寸毫たりとも逸脱してはならぬとする態度は、少なくとも規範として無批判に採用していいものとは到底思われない。

・設定および世界観について語る際の要諦は、それらの組み合わせが無数の正しさを実現するということへの意識である。戦闘シーンのみのPV、つまり意図を推し量る材料に極めて欠ける現状に於いては、望ましい姿からの乖離によってこれを批判することは非常に難しい。制作側がどのような正しさを求めているのかわからないからである。

・重ねて言うが、艦娘や妖精といった存在を受け容れた時点で、全てを現実の法則に引き付けて考察する類の理路は所与の正しさを失っている。

 

・また、兵器の描写を現実に沿わせる立場は、そもそもが非常に頭を遣わされる類のものでもある、といった事実も忘れてはならない。

艦娘の存在以外に超常的な要素を仮定しない、つまり水上を滑る少女が実在兵器を使って戦うといった設定を採用すると、即座にいくつかの問題が立ち上がってくる。

・たとえば、通常兵器が効くなら深海棲艦の相手を艦娘がしないとならないのはなぜか、と問うことが可能だ。また、艦娘が人間サイズで兵器が通常兵器なのであれば、そんな豆鉄砲で倒せる深海棲艦は脅威たり得ないのでは、などと言ってしまうことも容易だ。実際の戦艦を使っては駄目なのか。爆撃では駄目なのか。

・そういった疑問に囲まれた時、超常性の射程を艦娘から装備にまで延長することが非常に簡単な解決であることに気付けるだろう。通常兵器では害することができない正体不明の敵。手垢にまみれた答えには安定感があり、こちらの方がよっぽど、基本として置く立場としては適格のように思われる。

・かように、兵器に関して常に現実の物理を優先するような立場は大変に考えるべき事項が多く、論者自身が正しさをパッチワークして自分なりの設定の連なりを示さねばならない類のものである。その過程には当然のように設定の捏造を盛り込む必要もあるだろうし、決して現実の兵器を参照して描写に異議を唱えればよいだけの立場ではありえない。

・設定同士の連関を無視して局所的に難癖を付けるのは、ありとあらゆるフィクションに対して可能な無敵かつ無意味な批判の手法にほかならない、ということ。

・論者の望むリアリティを確保しつつ、破綻の少ない世界観の構築に成功した二次創作は枚挙に暇がなかろうし、そのような立場での思考は艦これ世界がどうであるかの考察ではなく、艦これ世界がどうであれば面白いかの考察に、つまりは二次創作の糧として大変有用なものであるように、僕には思われる。

つよきす論の布石(?)

・発話は意味内容のみでなく、その発話の為された状況にもその意味を左右される。前後の発話との意味内容の関わりや時間的間隔といった文脈に属する要素のみならず、身振りや表情といった身体的な要素もまた発話の意味を定位する上で重要な役割を果たす。

・まあ要は同じ意味内容の発話であってもタイミングやら話の流れやら発話者の表情やらで違う意味を持つよね、ってだけの話なんだけども。

・ここで、意味内容を極端に重要視した発話について考えてみる。発話の意味内容にのみ注目したコミュニケーションとは即ち、外部の要素の削ぎ落とされたシンプルな発話の応酬か、或いは個々の発話に付随した外部の要素に見ないふりをして/または気付かずに行われるコミュニケーションである筈だ。現実的には前者のような会話は想像しにくく(ロボットの発話について考える時、この種の極端さは現出するだろう)、後者のような会話について想像する方が容易だ。

・後者のような会話とはつまり、「発話の意味内容のみを信じる」という種の誠実さが要求される会話である。発話の背後にどれだけ真意が透けて見えようとも、敢えて忖度することはせず、ただ相手の主張した通りのもの以上は受け取るまいと務めるような対話。そこには、敬意に満ちた距離感が存在する。

・直感的には鍵ゲーのシリアスでの会話ってこうだよなーというのがあるんだけどテクストに当たって引用しながら書かないとアレなのでそのうち精査したい。AIRとかそんな感じじゃなかったかしら(各々が好き勝手に個性に従って発言する、という状況がコメディパートだと狂騒的な日々の構築に寄与しつつ、シリアスパートに至った途端、断絶に満ちた空疎な距離感としてその姿を変える)。

・逆に、意味内容ではなく、周囲の文脈を極端に重視する会話について想像することもできる。何を言っているか、ではなく、どう言っているか、いつ言っているか、なにを受けて言っているか、が重要視される対話。そこにおいて会話とは文脈の操作であり、そこにはある程度の共通理解を前提とした一体感が生まれる。

・例として考えているのはゆゆ式(あの作品の場合、相手がどう考えているか、まで踏み込んで文脈を操作しているので、上で書いた以上に複雑なことをしている気はするけれど。そういう意味で、悪魔の書物呼ばわりした某氏の感覚は信頼に値すると思う。リア充的世界観の勝利)。

 

・もうちょい練りなおして叩いて伸ばせば何かに使えそうな感じの論。まだ実用性はないな。

赤城! 寝ます!

・艦これがソシャゲなのか問題については措く(初手から逃げ)。

・艦これの面白いところについて考えると、まあミリタリーと萌えの混ぜ方とか基本無料課金ゲーとしては珍しい緩さとか運と意図が絡んで絶妙に達成感を煽ってくる難易度調整だとか色々挙げられると思うんだけど、特に尖ってるのが提示されるパラメータのマスクされっぷりかなーと思う。

・隠しパラもあるだろうとはいえ、主要な数値はプレイヤーの目に入る位置に表示されているし、それぞれが大まかにどのような意味を持つかも公式に問い合わせればある程度は教えてもらえる。しかしながら、大まかに機能がわかる/類推できるはずの数値が、その多さがゆえに精確な素性を晒さない、というあたりに巧さがある。同じ敵にレベル補正まで含めて同条件で試行を重ねて統計を取ろうにも、そもそも運が大きく絡むシステムなだけに結果には不透明さが漂う。で、それじゃあどうしようもないじゃん、となりそうなところを史実の艦船の情報と重ねて考察可能にしてあるあたりがまた善い、という。

・こういうデザインを見てると、FF9発売当時にスクウェアがネット上での攻略情報の共有に難色を示したり、発売後しばらくは攻略本を出版しなかったりした件とか思い出す。当時、攻略情報は一度出てしまえば拡散/周知されてしまう類の要素として扱われており、インターネットの台頭は謎解きの面白さを損じる原因になると考えられていた。それを踏まえて、プレイヤー間の横の繋がりをある程度絶ってしまうことを前提に古き良きゲーム(そこには友人間の情報共有なんかも想定されていただろう)を体現しよという発想に至ったのがFF9だろう。

・そう考えると、艦これのデザインはむしろ積極的な情報共有と考察を前提とし、それでも全容が明らかにされないところに特徴がある、とか言えそう。ビッグデータを基に傾向をとり、全容を解明していく。プレイヤーの働きかけに対する出力を共有せねばならない―――細かく異なった情報はあっても全く同じ情報はない、というあたりにミステリADVの作外での考察などとはまた違った構造を見出すことが可能だろう。

・で、結局副砲は積んだ方がいいんですかね……?

誰かがくれた 優しい言葉が

リトルバスターズの主題歌と実際の物語とのズレ、というものについて考えていたことがあって。アニメ版を観てちょっと考えが進んだのでメモしておく。

・前段。「ひとりが辛いから ふたつの手をつないだ ふたりじゃ寂しいから 輪になって手をつないだ」「みんなで作った輪は大きくなりすぎて 時にはきみがどこにいるのかもわからなくなって」といった歌詞は、本編とうまく対応しない。ここで歌われているのは孤独な二人を始まりとした大きな輪と対の関係性の変質であって、この二人に恭介/理樹/鈴の誰を代入しても、綺麗に嵌ることはない。この三人の相互の認識は集団の大きさに埋没するような性質のものではないし、そもそも力関係が対等とは言い難いからだ。

・これは多分、初期の物語では理樹と鈴が対等だったとかそういうアレなんじゃないかなー、という気がする。或いは『Hanabi』を参照するに、猫が好きで「きみ」に護られてばかりだったのは理樹くんの方だった、のかも知らん。つまり鈴の方が先に手を取った、とゆー。

・Hanabi原型説を採用すると(推測に推測をエビデンス無しで重ねるのもどうなんだかなーって感じだけれど)、初期鈴の庇護者としての強さだけを分離して恭介を作り、本来の理樹の性質を鈴に転化させたのかな、という気がする。

・でもだったら「今度は僕があの夏へ連れ出すから」を鈴がやってくれなかったのは何でなんだろうという……。

・実際のところ、リトルバスターズで最も判断が難しいのが鈴の存在のような気はしていて。極論、鈴がいなくても物語をそう変わらない筋立てで組むことは可能なように思えて、じゃあ、何のために? と考えていきたい訳なんだけども―――。

・脱線したので戻す。

・最も強く浮いているのが「ここからは一冊しか持っていけないよ それでよかったのかい?」という一節で。「きっとそれが幾千の力にもなり どんな夢も断てる気がするんだ」と前置きした上で「僕らみな同じ夢を見ていた 過ぎ去る1ページの」と後に続くのだから、おそらく当初は、誰か一人を選べば他の皆は……という構図の物語だったのではと思う。作中でのループを用意しない(プレイヤーのみが繰り返す)となると数多のバッドエンドの山を乗り越えてハッピーエンドを祝福できるかって話になるし、虚構世界を二重にして内部でループさせました、というのもそれはそれで(目的がヒロインとの脱出なのであれば)本編よりも悪趣味だよ恭介氏という感じになってしまうので、ここらへんは要考察かな。

・描かれなかったものを適当に予想しといて考察ってのも。

 

・……というところまでゲーム版については考えていたのだけれど、アニメ版の人形劇会で小毬さんの描いた絵本がたくさん出てきた―――画面に明示的に示されたことが非常に気になって。あれってもしかして、小人さんの話だけじゃなく、リトルバスターズについての他の絵本もまた描かれていた、って伏線なんじゃないかしら、とか。

・”一冊”を個々のルートやキャラクターではなく、リトルバスターズの命運、物語そのものを包括したものとして解釈しているとすれば。たとえば、Refrainのラストでそのような絵本―――全ての小人が共に助かるような物語の存在が示されたとしたら。特に後半、原作の筋をアニメのために読み替える手腕の光ったスタッフなのだから、主題歌の違和感を最後の最後に回収してのける、くらいはしてくれてもおかしくはない。

・という感じで、大仰な予想をぶち込みつつRefrainを待ちます。待ち遠しいなあ。

世界は見る人のイメージで変わるんだって。知ってた?

スクールカーストもの、と評されるようなある種の構造を持った物語においてはまずリア充とDQNをどうやって接続するか/或いはそもそも接続しないのかって点に注視せざるを得ない、というのはつまり僕の問題意識もとい執着がそこにしかないから。

・悪い奴が悪く在ってくれることの幸せ、というのがあって。滝本竜彦がまず浮かぶ(ルーツは筋肉少女帯かな)。絶望に足ると客観的に見られる状況は絶望に浸ることを許されるという一点についてのみ救われていて、これが普通の状況で絶望しているのであれば、その救われなさは更に深みを増す。

・俺修羅のピュアさとはまちの邪悪さとAURAの無慈悲さ。AURAのは最後の最後にどんでん返しをすることでその無慈悲さ/正しさ/精確さが一気に陳腐に見える、という辺りが気に食わないんだと最近ようやく把握できた。

ん?

・郷愁も情愛も感動も憎悪も恋慕も、ありとあらゆる感情は脳味噌に電極挿してうまいこと電気流せば再現できる訳じゃん? というのは全くもって正しく、でも僕たちは自分の脳味噌に電極挿して電気流せる訳じゃないので、先述したような観方はそれら感情の生化学的な/物理的な見地からの神聖さを無効化するものに過ぎない。とはいえ、原理的に操作可能であっても実際には操作できないのだから、それら感情を評価する際には実際に生起した感慨を生の中でどう位置づけるかについてのみ考えればよい。

・のだが、そこにSF設定で踏み込んだのが最果てのイマではあって。

・何を書きたかったんだったっけ?