世界とセカイと人とキャラ

・いまさら某ブログの存在を知ったので、気になった話題に空中反応。こういう経緯で知るというのも悲しいことだけれど。ネットストーカー的素養が足らんなあと最近よく思うところです。

・創作において、理由なく人間が人間に惚れるのは非常に願望充足的かつ作為的な話運びである、という認識は、少なくとも後者に限っては間違いであり、端的に論理の転倒である。前者についても言いたいことはあるけど、とりあえず措く。

・能力や環境を勘案して必然的に結ばれたと見做せるような交感こそが物語的であり、作為的(負の意味ではなく)であり、創作的である。たとえば「優柔不断な男性が理由もなく美少女に惚れられて」などという言い回し(いま作った。対象を想定した揶揄ではない)には、人間は容姿や人格に応じた相手と結ばれるはず、という認識が潜んでいる。だが、その種の純化された世界、必然で全てが動く世界をこそ創作は志向してきたし、その裏にはこんな筈じゃなかった世界の不条理さへの抵抗、条理への意志があったのではなかったか。

・つまり、物語と実世界とで、そこに向けるべき認識が捩れてしまっている、ということ。こういう認識が流通しうる理由は……なんだろう。識者に丸投げしようか(最低)。

 

・脱線。ひとつのシステムとしての/或いは制度としての「人間」の単純さ、ちょろさについて描いてきたのがある種のSFだったよね、とか。認知あるいは脳に関する研究の賜物なんだろうなーと思う(かつて外宇宙へと想像の翼を広げていった最先端のSFが、内的世界を探求する所へと帰着した、というのは何だかロマンチックな話じゃありません?)

・そのような認識において、だがしかし、と人間性の聖域を見出そうとする意志にこそ、惹かれる。そういう文脈で最果てのイマがすごい好きなんですよ、と自分語りしておいて一旦終了。