ヤンヤンつけボー(おいしい)

ヤンデレと奉仕概念を組み合わせると邪悪だし、ねえ? みたいなメモを発見したはいいものの、読解に暫くの時間を要し、これメモの意味ねえなとの結論に達した。理路を省きすぎというか未来の自分に期待しすぎというか。アホやでこいつは。

・なんでヤンデレといえば包丁なんですかーという叫びが日常的に聞かれる程度には、包丁とか持ち出さないヤンデレが求められているらしい。その割には今日も今日とてヤンデレは包丁を腰だめに構えたりしている訳で、いや意識の高い/或いは専門的なヤンデレ好きの間ではそんなことは無いのかも知れないけれど、少なくとも一般的に流通するヤンデレは包丁とか持ち出すタイプのが多いっぽい。(少なくとも、見かけの)受容と供給が一致してないのだから、たぶん処理的に楽な方に収束してしまうのだろう、と当たりをつけつつ考える。

・好きすぎて病んでしまう、という造形をどんどん純化させていった時、そこには無限の好意が実現する(そして現代とは純化の時代である―――たぶん)。で、その無限の好意をどう扱うか、で道が分かれる―――つまり、好意を寄せる対象の幸せを最上のものとするか、或いは自分の好意の成就をこそ目的とするか、という二択を迫られる。ここで前者には大きな問題があるため、その解決にコストを投入したくなければ後者を採用することになる、という問題系にしておくと割と納得しやすいかな。で、その問題とは、という段になり、冒頭の「奉仕概念」に接続する。

・相手の幸せを願う―――相手を幸せにする―――ために、自分と相手が結ばれればいい状況である、或いは結ばれればいいと信じられるような精神をしている場合は、何も問題はない。しかし実際には、そうでない状況が存在しうるし、自己評価の厳しい、クレバーなヤンデレも存在するだろう。自分と結ばれない方が、相手にとっては幸せである。そんな恋を前にして、好意に突き動かされた少女は何を想うか。……そう考えると、ある種の暴力性、思い込みで相手を測れる/自らの願望を行動に移せる身勝手さというのは、心を壊さないための資質である、と見做せはしないか。

・つまり、短絡的な行動や身勝手な妄想を封じられたヤンデレ、というキャラ造形は、あまりにも詰んでいるため、扱いが極端に難しくなる、ということ。……本当に?

 

・という感じの仮説に沿ってSSとか書いてみたけど、うまいこと動かなかった。積み重ねのないヤンデレは弱いよなー、とか(短編でやることではない)。

・少女、と書いたけどもちろん少年でもよいはずです(論理上は置換可能)。が、包丁でズッシャーとかやってくる類のアレを男性に担わせると途端に暴力のえげつなさが強調されてヤバい―――ハルヒ的な物語を全員TSさせた時のようなヤバさが顕現するので、たぶんあんまり好まれない。関係性が含む暴力性を女性に担当させることで隠蔽し享受する我々、とか書くとすげえ禍々しくていい感じに死にたくなりますね。