まんがのそくどのひみつのひけつ

・時間によって変化が発生するというよりは、変化を知覚するための変数として時間が要求されている、という捉え方の方が人間の認識の感覚にそぐう気がする、とか。つまりその、何かの変化を通してしか人間は時間を認識できない、ということ。

・たとえば漫画の中で時間がどう扱われているかというと、コマからコマへの遷移に際して状況的な変化がまずあって、その状況の差分を補完するように読者が世界の変化を想像する、その時に初めて作品世界を時間が流れる。フォーマットの段階で状況の変化を離散的に描くことが事実上のスタンダードと化している以上、この見方はそれなりに正しいはず。

・ここで面白いのは、この時間の経過が単線的である必要を持たないこと―――つまり、ある状況から違う状況へと変化したものが複数あったとして(キャラの身振り、発話、思考など)、それらの変化する速度が等しくなくとも成立すること。より精確に言えば、ある描かれた一瞬においては齟齬を許されないのだけれど、描かれた状況と状況の間、想像される変化の過程においては並立不可能なはずの状況が許されうる、ということ。

・たとえば刃牙のような格闘漫画を例にとると、攻撃の際に気合いの叫びなり能書きの台詞なりを発話しつつ攻撃動作を行うコマと、その攻撃への対処を考えるコマ、そして実際に攻撃が命中ないし回避あるいは防御されるコマ、と描かれた場合、普通に読む分には問題なく読めるものの、これを脳内で滑らかに再現できるかと問われた場合、かなり難しいことが判るはず。ボクサーのジャブは人間の反射神経0.1秒を超えてるンだぜとか言ってる世界で、喋りながら/考えながらの攻撃を想像することは、ほとんど不可能に近い。にも関わらず、何も考えなければこの齟齬は意識されない。この時間の流れの歪み(の隠蔽)こそが、漫画の最大の武器である、と思う。

・念のため要点を明らかにしておくと、たとえば最も遅いであろう発話に合わせてモーションをゆっくりと想像する、というのではなくて、飽くまでもそれぞれの動作が正しい速度で同時に想像されうる、という時間方向の齟齬の存在についての言及です。自分で読んでても超わかりにくいなあ。

・一方で、時間の流れる速度が読者に委ねられることを嫌う場合、状況の変化を微小にすることで、変化に付随して想像される時間の流れもまた微小なものとすることが可能となる。これを徹底していくと完全な等速度での制御が実現される。まあ一定の等速度であるだけであって、速度そのものを制御することはできない、のだけれど(読者の読むスピードに依存する)。

・微小時間しか経過しないようなコマの変遷を高速/大量/強制的に行うとアニメーションになります。

刃牙を例にとると、最強トーナメントの烈海王戦後半なんかは速度のコントロールがすごくて、もはや緩急だけで展開が完成していると言ってもいい。台詞を排し、攻防を極めて高速に描くことを基調としながら、転蓮華や足投げといった魅せるべきシーンでは一気に時間を停滞させている。

・もしかするとピンポンとか例に出した方が解りやすかったかも知れない(ドラゴン戦、サーブの際の「俺の名前は/星野裕だ/そこんとこ、ヨロシクッ!」を映像化するに当たっての処理とか、非常に参考になるのだし)。……刃牙のアニメ版? うーん……。

・ともかく、総括。認識の歪みをハックすることが漫画の強みだよね、というお話。

 

・ちなみに小説やノベルゲームにも上の議論は適用できて、というのは変化それ自体にヴィジュアルイメージを伴わず離散的な状況の変化を表現できる媒体であれば同様のことが起こりうるので、そういう意味ではFate/stay nightにおける(月姫からの)戦闘演出の進化には色々と思うところがありました、とか。

・上だと格闘漫画について書いてるけど、むしろ概念戦闘、哲学バトルとの相性のよさこそがこの種の認識の歪みの真骨頂のような気もしていて。剣戟のエフェクトを滑らかに表示しちゃったり、まほよ(未プレイ)では演出の映画への漸近とか誰かが言ってたりして、それって奈須きのこの資質の真逆を志向する変化じゃないかなー、という気がする訳です。

・のでDDD3巻を、はよ。