無為式の体現(読んだ人間が不幸になる記事)

西尾維新は人間が描けていないから駄目だという類の批評を見た瞬間クソがーという感じになるのだけれど、それは「小説は人間を描かねばならない」という規範を押し付けられるのは御免だというだけの話でしかなくて。

・規範の押し付けをこそ疎んでいる訳であって、生きたリアルな人間を描かねばならない理由を文脈として/信仰として提出して貰えた場合はその限りではない、ということです。おそらく僕はそこに賛意を示しはしないだろうけれど(そういう信仰で駆動しているので)、少なくとも、無駄に殺しあうことは避けられる。カロリーの無駄遣いはよくないと自炊を始めてからよく思います。本当に。

・ただ一方で、人間はしばしば己の感慨を言語化できない、ということにも注意を払うべき。というのは、まあ戯言なり物語なりきみぼくなりを読んで「人間を描けていない」と批判する人の嫌悪/憤り/嘲り/或いはその他の悪感情が、果たして言葉通りに「人間を描けていない」物語を読んだがゆえのものなのか、という疑問が発生しますよね、という話。作品への嫌悪を一般的に流通する貶し文句に仮託して表現してしまうことは、一般に非常にありがちなことだと思う。

・感慨はいつだって言葉にすれば整形され喪われ零れ落ちる。楽しみたいなら批評をするな、といった趣旨のことを誰かが昔言っていたことを、このような意味において、よく想起します(元発言がそういう文脈だったかは知らない)。己の感慨を切り刻むような、腑分けして他人の前に晒すような、絶望的な在り方こそが批評である……とか門外漢が言うのは超無責任なので本当はよくないんですけれども。基本的に雑記とか感想とかいったタグしか遣わないのはそこら辺の事情。言葉遊びでしかないとしても。

 

・脱線。最果てのイマのえっちシーンがすげーえろいのは三人称で卑語を封印してるから、だと思ってるんだけどそもそもイマのえっちシーンがえろいのかどうかあまり人に聞いたことがない。

・他者の性交を見る時、行為者の性感の高まりを想像/追体験することによって興奮が生じる、とする。男の存在が希薄な感じのえっち漫画を読む時、男性は犯される女性にこそ感情移入しているのではないか、といった話ですね。その意味で、三人称は強い。そこには描写される人間が二人いて、説明する視点は行為に参加していない。言葉にすれば言葉に規定されるのだけれど、言葉を遣わずに外的な表象―――たとえば表情、動き、音声、喘ぎといった―――によってのみ性感を描くことによって、そこには無限の快楽が想像されうる。無限の本質は捉え切れないことにある、とかそんな話。

・じゃあ卑語は駄目なのかっつーとそんな話ではなくて(僕個人は苦手ですけど)、ただ、遣い方が最適じゃなさそうな場所で遣われているな、という印象があって。つまり、卑語を最強にするためのお膳立てには結構テクニカルな処理が要求されるはずなんだけど、そうしてないものをよく見る気がします、といった話。実例出さないとアレなので何か探しておこうと思いました。おわり。