備忘:家族について

・『家族計画』における「家族」は喪失と憧憬の対象であって、無条件にその価値が認められたものとして語られる。或いは、キャラクターがその価値への認識を再獲得することが物語の終着として機能する。また司の主観においては、彼らの形成する擬似家族の性質は常に「(理想的な)本当の家族」との偏差で語られ、その奇妙な在りようそのものの価値に言及されることはあんまりない(あの特殊な空間のよさ、それ自体には言及されない)。家族計画は家族として機能する時のみ肯定的に評価される。

・という辺りがもにょりポイントなのだ、ってところまで整理できた。

・ただ、『星空☆ぷらねっと』での容赦のなさを見るに、家族計画の頃からどこまで踏み込んで書くかの水準をコントロールできる人だったのでは、という気はする。家族という制度そのものを解体するような話もありえたのかも知れない(つまり、書き手の能力の話に還元すべきではなさそう、ということ)。そうしなかった理由は、まあ、一般性を志向したとかそういうアレじゃないかな。たぶん。

・家族への認識の話として、あの空間の優しさを疎みながらも同時に強く焦がれてもいた準や、最初から家族という形態に頓着せず共同体の中で笑い続けた春花、家族ではない者たちとしてでも一定の領域で心を許していた青葉の在りようを想うと、家族なんだから連帯しなければ、という中盤の司の言葉は空疎に響くし、また実際、それは実を結ばない。

・もちろん、寄り合い所帯であるはずの家族計画が奇妙な連帯を形成するにつれ、司が本人の意識していないところで彼らに「本当の家族」のように振る舞うことを求めてしまう、という認識の変化が展開を形成する上で重要な役割を果たしているのだが、単純に読んでてつらい。たとえば両親が死んで嬉しくて哄笑する青葉様に家族の情はないのかと問い詰める場面とか、画面に腕が入るなら僕がぱんちしてましたってレベル。

・つまりその、家族ってものを考える時には血縁(系譜)としての家族と形態(生活の上での共同体)としての家族があって、擬似家族という題材は両者を強く解体できる強さを持ってるはずなんだけど、その境界を撹乱して話を閉じるのはどうかなー、という気がする。って感じで一旦措く。また散漫になってしまった……。