あの空は夏の中

星空☆ぷらねっとについて、数年前に一度やったきりの記憶を引っ張りだしつつ与太を垂れ流さんとする極めて胡乱な試み。

・真田恭子さんルートの終盤、最後の山場。あのシーンでは、弟を喪ったヒロインの護り手として主人公と恋敵のどちらが適格か、というそれまでの問いが根本から覆されていた点に注目すべきだと思う。つまり、彼女と対等に付き合うパートナーとしてどちらが優れているかではなく、彼女が喪った「弟」という位置を埋められるかどうか、埋めることが彼女を満たすのだと気付けるかどうかが問題とされた、その論理の転倒にこそ注目に値するものがあるのでは、ということ。優れた者となることで相手を得られるという(ある種自明な)発想の拒否。

・対等なパートナーとして過去の傷を克服する助けになろう、思い出は思い出として内面化できるまで支えよう、という姿勢に比べれば、僕が弟になるよ、というのはいかにも危うい発想に見える。けれど、健全である必要なんて本当は無いはずで、正しく在ること、強く在ること、そういった規範の(不可思議な)自明性を敢えて無視したことによって、この物語の結末は別の尊さを帯びるに至った、と見做したい。そのような規範は、殊に創作上の物語においては自明性を強化されているように感じるので、余計に。

・で、初プレイ時には「なんだこのご都合主義的な展開は……」と戦慄させられた山本ゆかりさんルートの話。端的に言ってしまえば天に愛された人の物語で、主人公の過去のトラウマに関わっていないこともあり、真っ直ぐに夢を掴む彼女に触発されて主人公が夢を取り戻す、非常にシンプルな話。物語なんて筋だけ示せば大体シンプルになってしまうのだけど、そういうのを差っ引いてもびっくりするほど真っ直ぐな話で、本当に何の波乱も無く終わる(はず)。

・当時はなんだこれと困惑するほかなかったのだけど、今にして思うと、この作品全体の世界観のバランスを取る話だったのかなあ、という気もする。他のルートで理不尽な悲劇と失意からの復活が語られる中、理不尽なまでの成功の軌跡を描くことで、世界には悲劇も幸運も満ちている、一概に言えない法則性の無さこそが世界だ、という方向でのリアリティを追求したのでは……という。

・つまり久弥的な、とか書くと一気に胡乱。

・なお、ガチでうろ覚えなためそのうち再プレイしてから改めて書く模様。