それは最果てのイマの話……なの?

・いじめっ子の側こそが実は弱いとする論理はかなり危険なので取り扱いに注意した方がよいのでは、とか思ったのを発端に電波を飛ばす。

・被攻撃者を「実は」優位である/格上であるとする論理は、被攻撃者に強者故の寛容を強要する、転倒した構図を容易に招く。

・また、実は弱い、という言い方はつまり大方において強いということを意味する。弱さを隠す立ち回りさえ徹底できれば常時強い、とも。正しい人間は正しく評価される/誤った人間はどこかで失敗する……という単純な信仰に縋らない限りは、要所で「正しく」振る舞える攻撃者に天罰を期待することは難しい。仮に「実は弱」かろうが、強者として振る舞っていくことは可能であり、またそれは他者を害する資質の1つでもあって―――ここに論理は循環する。

・敵を過小評価し、被害者に忍耐を強いる。そのような論理がバックスタブ以外の何だというのか、といった問題提起。ないしは与太。

 ・本題(?)

・伊勢崎は悪であるが故にではなく、沙也加の聖域を害したが故に駆逐された。そして、エピローグで語られた、彼が聖域の一角となっていた可能性。

・倫理の恣意性に対する自覚。ともすれば、太刀打ちのできないほどに狡猾な悪をも田中ロミオは描きうるだろうし、そもそも、人類全体の悪を背負った彼こそが―――といった話。

・そういった意味で、怖いほどに誠実で精確だ、と感じさせられた。だからこそ、とdisを続けるのがこの場合は誠実さなのだろうけれど、何か萎えたので次の機会に。