ねーちゃん! あしたっていつかさッ!

皆川亮二PEACE MAKERの話。たぶん胡乱。

・完全な哲学バトル或いは概念闘争に於いては、勝敗は偶然性に左右されない(そういうものとして定義する。ここではそのような語として遣う、ということ)。勝敗が決する瞬間に至るまでの過程はカタルシスを最大化させるために存在する。そう考えた時、1vs.1の早撃ち勝負という題材は非常に強い。

・勝者が常に勝つべくして勝つという世界観は、剣戟や格闘といった応酬の緊張感を削ぎうる。次の瞬間にも終わるかもしれないこと、そしてどちらが勝利するか判らないからこその緊張感であって、つまりそれは偶発性の領分であると見做せる。哲学バトルとして純化された世界観を採用し、なおかつ長い戦闘を描こうとすると、そこには予定調和の先延ばしが発生する(個人的に、Fate序盤の戦闘が楽しくない最大の理由)。

・作中で採用された勝負の形式では、攻撃のタイミングは完全に任意となっている。先んじて抜き放つことは必ずしも有利ではなく(少なくとも有利ではない、という世界観が採用されている)、どちらが先手を取るかもまた駆け引きの一環として機能する。思考を続け、機を伺い、攻撃せずに待機する時間を戦闘の大半とすることで、緊張感を持続しながらも哲学バトルとしての純度を失わせなかったというアクロバットがそこには存在する。

 

・……偶発性/必然性という軸で云々するのはそんなに悪くないっぽいのでもうちょっと練り込みたいところ。現状ではさすがに粗雑やなー。

・強さのどこまでを在り方に拠るものとして認識するか、は非常に面倒な問題。哲学と銃撃のスタイルと各人の身体能力/練度の重み付けについて言及しないのは不味いよなあ。

・紅の処刑人<<クリムゾン・エクセキューター>>というワードを見た瞬間の「ああ、皆川亮二の漫画を読んでいるんだなあ」という実感。