悪の華

藤田和日郎作品で「生まれつきの邪悪」って見たことがないな、とか思ったのでメモ(月光条例はまともに追えてないので論理に穴があるかも)。

月光条例を考慮するまでもなく多分穴だらけ。はい。

・うしとら、からくり、スプリンガルド、月輪について考えると、悪役は精神的に未熟である(世界が自分の思うままに動かないことに我慢ならない)か、或いは在り様のレベルで他者との触れ合いが不可能であった(環境が邪悪さを規定する―――白面やオートマタ達のように)ものの二通りに分類できそうな気がする。もちろん後者が未熟でないとか前者が環境に恵まれてないとかいった話ではなく、ある程度の重み付けによって二軸でマッピングできる感じの分類として。色々と取り落としてそうなモデル化でアレだけど、まあ(僕の)簡単のために。

・精神的に未熟なまま力を手に入れてしまったフェイスレスを旅を通して成長した勝が倒すとか、人間と妖怪の間をさまよう潮が白面の孤独に共感を示すとか、実に精確で、さすがだなーといった感じではある。中盤以降の勝プッシュは実際鬱陶しかったけど、最終決戦に関してのみ言えば、鳴海にーちゃんが倒しちゃったら駄目なんですよね、とかそういう。

・論破し屈服させることではなく、寄り添い、感情的に救うということ。完成したヒーローとしての鳴海にーちゃんには出来ないことで、勝が弱さを(限定的に)克服することで始まった物語は、彼が弱さを知るがゆえの救済によって終わる。あと身も蓋もない話をすれば、力のある子供をより強い大人がブン殴って黙らせてもカタルシスないよね、という展開上の話も絡んでくるかな(『惑星のさみだれ』の優れた部分について敷衍可能と思われる)。

・……などと褒めておきつつ、一方で、じゃあ救いようのない悪について藤田和日郎はどう処理するんだろう、という疑問が生まれる。つまり、環境や未熟さで説明のつかない、改心も成長も望めない、本来的に異種とでも呼ぶべき生き物のことなんだけど。悪と呼ぶことすら憚られるほどの断絶を前に、人の情を教えてあげることも、成長を促してあげることもできない相手に、何ができるのか。

・更に言えば、その悪が人間だとして、彼は生まれてきてはならなかったのか、って話になっちゃうよねーとか。生まれつきの邪悪は、果たして存在を認められるべきなのか?

・認められるべきだ、という前提から逆算するような姿勢のが好ましいなーと(この種の問題に関しては)個人的に思うところです。