世界を糊塗する心的領域

・「なぜ邪気眼中二病と称される振る舞いを含む)は駄目なものとして扱われるのか?」という問いから始めたい。

邪気眼の悪さは、たとえば周囲との軋轢を生むこと―――会話が成立しない、団体行動が乱される、などといった―――や、たとえば経験者の感じる恥ずかしさに起因した親切心/同族嫌悪、といった観点から説明される。

・しかしながら、これらの問題をあまり備えないような邪気眼について想像することは、そう難しくはない。周囲の理解や、痛さへの自覚、そういった要素を導入することで、立ち回りレベルで問題のない邪気眼キャラクタは成立しうる。

・そこに悪を見出すためには、「正常な人間」という規範からの偏差や、或いは成熟/未熟といった評価軸を採用するような視点の導入が必要となる。これら評価軸がそのまま通じる人間相手に作品を書くのであれば、何の問題もない。ただ、常識という概念の根拠の乏しさ、恣意的な運用のされ方を鑑みると、それは端的に邪悪であり、差別的である。

・邪悪でも差別的でも面白ければいいのだが、僕は普通につまらないとも思う。致命的なまでに。

・そこで、と各論に繋ぐ(たぶん)。今日はここまで。