栗は神の食べ物だってシスターが

Marronから出ている竹井10日作品の肝は、狂騒じみた楽しい日常が各人の努力によって支えられていること、だと思う。

・彼らは基本的に聡明であり、コントめいた会話や無茶な催しは意識して振舞った結果として成立する。より楽しく、より自由に、と日々を作っていく意識がそこにはある。

秋桜にせよおねきゅーにせよひまチャきにせよ、過去に大きな悲劇が存在し、その悲劇が楽しい現在の破れ目から覗き、試練を突き付けられるような構造になっている(おねきゅーはちょっと特殊だが)。悲劇は常に過去にあり、楽しい現在はそうあれかしと意識された結果、成立しているものでしかない(人の努力なしに楽しい日々が常態化している世界観ではないし、努力なしに楽しく在れるものとして、人間が定義されている訳でもない)。だから容易に、悲しかった過去が楽しい現在に影を落とす。過去が追い付いてくる、といった感覚。だから、成長や決別を経て悲劇の重力から解放された時、希望に満ちた未来がやっと到来する。

・彼らの振る舞いからは時折、ひどく冷静な意志が覗く。秋桜でもおねきゅーでもそうだったけれど、特にひまチャきはそれが顕著で、酷薄な現実への、醒めた視線が時折見える。誰もが悲劇を経験した世界で、彼らの脳天気さは、絶望に抗うためにある。

・そういった、喪われるものへの哀惜に裏打ちされたお祭りのような日々を描いた物語としてひまチャきが本当に好きなのだが、あんまりそういう褒め方を見ないので、なんか変な読み込み方してるのかなあという気はしている。

・そもそもMarronゲーについて長文書いてる人をあんまり見ない。はい。

 

・こう書いておいて何だけれど、鎌倉タケルとかはリアルに頭おかしい気もする……。おねきゅー自体がなんかもうイカれた代物なので三作括るのがムリなんじゃねという気は正直。

・展開が似ているといわれるONEと秋桜だけれど、上記のような意味では後者はだいぶsimplifyされている。過去の悲しさを忘れて今を楽しむことが楽しい今との決別に繋がってしまう(盟約が発動する)ONEと、呪いの発動が終盤のフックとしてのみ機能する秋桜とでは、後者の方がより単純な処理ではあるはず。

・単純な処理を志向したというよりは、物語を閉じるためのギミックとして主人公の変質が要請されたのでは、とか。何の根拠もないんだけど。

・実際、オミくんが変質しないままきちんと話を閉じるのってだいぶ難しいように感じる。主人公を関わらせず、ヒロイン側のみ強制的に時間を経過させるためのギミック、というのは幾ら何でも結果論に過ぎるかなあ。