馴致の果て、感覚を仮構して

・あるゲームのゲーム性とはそのゲームから読み取られたものでしかなく、その概念/思想を一般化して他のゲームへの言及であると領域を敷衍させて解釈することは、端的に詭弁染みているのでやめた方がいいと思う。

・あとマップ探索の話だけど、広大なマップを探索するということについてグラフィックに触れずに論じるのはたぶん相当無茶で、たとえばそこでFF8において街道(モンスターの出現しない領域)や車といったシステムが導入された理由とか考えるとそれなりに楽しいんじゃないか、とか。

・言及してる人間が揃いも揃ってテメエの拠って立つ信念を明らかにしてない辺りにインターネッツ上でのゲーム語りのクソさを改めて確認した、とか言い出すと流石に煽り臭いのでアレやなー。

備忘:家族について

・『家族計画』における「家族」は喪失と憧憬の対象であって、無条件にその価値が認められたものとして語られる。或いは、キャラクターがその価値への認識を再獲得することが物語の終着として機能する。また司の主観においては、彼らの形成する擬似家族の性質は常に「(理想的な)本当の家族」との偏差で語られ、その奇妙な在りようそのものの価値に言及されることはあんまりない(あの特殊な空間のよさ、それ自体には言及されない)。家族計画は家族として機能する時のみ肯定的に評価される。

・という辺りがもにょりポイントなのだ、ってところまで整理できた。

・ただ、『星空☆ぷらねっと』での容赦のなさを見るに、家族計画の頃からどこまで踏み込んで書くかの水準をコントロールできる人だったのでは、という気はする。家族という制度そのものを解体するような話もありえたのかも知れない(つまり、書き手の能力の話に還元すべきではなさそう、ということ)。そうしなかった理由は、まあ、一般性を志向したとかそういうアレじゃないかな。たぶん。

・家族への認識の話として、あの空間の優しさを疎みながらも同時に強く焦がれてもいた準や、最初から家族という形態に頓着せず共同体の中で笑い続けた春花、家族ではない者たちとしてでも一定の領域で心を許していた青葉の在りようを想うと、家族なんだから連帯しなければ、という中盤の司の言葉は空疎に響くし、また実際、それは実を結ばない。

・もちろん、寄り合い所帯であるはずの家族計画が奇妙な連帯を形成するにつれ、司が本人の意識していないところで彼らに「本当の家族」のように振る舞うことを求めてしまう、という認識の変化が展開を形成する上で重要な役割を果たしているのだが、単純に読んでてつらい。たとえば両親が死んで嬉しくて哄笑する青葉様に家族の情はないのかと問い詰める場面とか、画面に腕が入るなら僕がぱんちしてましたってレベル。

・つまりその、家族ってものを考える時には血縁(系譜)としての家族と形態(生活の上での共同体)としての家族があって、擬似家族という題材は両者を強く解体できる強さを持ってるはずなんだけど、その境界を撹乱して話を閉じるのはどうかなー、という気がする。って感じで一旦措く。また散漫になってしまった……。

無為式の体現(読んだ人間が不幸になる記事)

西尾維新は人間が描けていないから駄目だという類の批評を見た瞬間クソがーという感じになるのだけれど、それは「小説は人間を描かねばならない」という規範を押し付けられるのは御免だというだけの話でしかなくて。

・規範の押し付けをこそ疎んでいる訳であって、生きたリアルな人間を描かねばならない理由を文脈として/信仰として提出して貰えた場合はその限りではない、ということです。おそらく僕はそこに賛意を示しはしないだろうけれど(そういう信仰で駆動しているので)、少なくとも、無駄に殺しあうことは避けられる。カロリーの無駄遣いはよくないと自炊を始めてからよく思います。本当に。

・ただ一方で、人間はしばしば己の感慨を言語化できない、ということにも注意を払うべき。というのは、まあ戯言なり物語なりきみぼくなりを読んで「人間を描けていない」と批判する人の嫌悪/憤り/嘲り/或いはその他の悪感情が、果たして言葉通りに「人間を描けていない」物語を読んだがゆえのものなのか、という疑問が発生しますよね、という話。作品への嫌悪を一般的に流通する貶し文句に仮託して表現してしまうことは、一般に非常にありがちなことだと思う。

・感慨はいつだって言葉にすれば整形され喪われ零れ落ちる。楽しみたいなら批評をするな、といった趣旨のことを誰かが昔言っていたことを、このような意味において、よく想起します(元発言がそういう文脈だったかは知らない)。己の感慨を切り刻むような、腑分けして他人の前に晒すような、絶望的な在り方こそが批評である……とか門外漢が言うのは超無責任なので本当はよくないんですけれども。基本的に雑記とか感想とかいったタグしか遣わないのはそこら辺の事情。言葉遊びでしかないとしても。

 

・脱線。最果てのイマのえっちシーンがすげーえろいのは三人称で卑語を封印してるから、だと思ってるんだけどそもそもイマのえっちシーンがえろいのかどうかあまり人に聞いたことがない。

・他者の性交を見る時、行為者の性感の高まりを想像/追体験することによって興奮が生じる、とする。男の存在が希薄な感じのえっち漫画を読む時、男性は犯される女性にこそ感情移入しているのではないか、といった話ですね。その意味で、三人称は強い。そこには描写される人間が二人いて、説明する視点は行為に参加していない。言葉にすれば言葉に規定されるのだけれど、言葉を遣わずに外的な表象―――たとえば表情、動き、音声、喘ぎといった―――によってのみ性感を描くことによって、そこには無限の快楽が想像されうる。無限の本質は捉え切れないことにある、とかそんな話。

・じゃあ卑語は駄目なのかっつーとそんな話ではなくて(僕個人は苦手ですけど)、ただ、遣い方が最適じゃなさそうな場所で遣われているな、という印象があって。つまり、卑語を最強にするためのお膳立てには結構テクニカルな処理が要求されるはずなんだけど、そうしてないものをよく見る気がします、といった話。実例出さないとアレなので何か探しておこうと思いました。おわり。

まんがのそくどのひみつのひけつ

・時間によって変化が発生するというよりは、変化を知覚するための変数として時間が要求されている、という捉え方の方が人間の認識の感覚にそぐう気がする、とか。つまりその、何かの変化を通してしか人間は時間を認識できない、ということ。

・たとえば漫画の中で時間がどう扱われているかというと、コマからコマへの遷移に際して状況的な変化がまずあって、その状況の差分を補完するように読者が世界の変化を想像する、その時に初めて作品世界を時間が流れる。フォーマットの段階で状況の変化を離散的に描くことが事実上のスタンダードと化している以上、この見方はそれなりに正しいはず。

・ここで面白いのは、この時間の経過が単線的である必要を持たないこと―――つまり、ある状況から違う状況へと変化したものが複数あったとして(キャラの身振り、発話、思考など)、それらの変化する速度が等しくなくとも成立すること。より精確に言えば、ある描かれた一瞬においては齟齬を許されないのだけれど、描かれた状況と状況の間、想像される変化の過程においては並立不可能なはずの状況が許されうる、ということ。

・たとえば刃牙のような格闘漫画を例にとると、攻撃の際に気合いの叫びなり能書きの台詞なりを発話しつつ攻撃動作を行うコマと、その攻撃への対処を考えるコマ、そして実際に攻撃が命中ないし回避あるいは防御されるコマ、と描かれた場合、普通に読む分には問題なく読めるものの、これを脳内で滑らかに再現できるかと問われた場合、かなり難しいことが判るはず。ボクサーのジャブは人間の反射神経0.1秒を超えてるンだぜとか言ってる世界で、喋りながら/考えながらの攻撃を想像することは、ほとんど不可能に近い。にも関わらず、何も考えなければこの齟齬は意識されない。この時間の流れの歪み(の隠蔽)こそが、漫画の最大の武器である、と思う。

・念のため要点を明らかにしておくと、たとえば最も遅いであろう発話に合わせてモーションをゆっくりと想像する、というのではなくて、飽くまでもそれぞれの動作が正しい速度で同時に想像されうる、という時間方向の齟齬の存在についての言及です。自分で読んでても超わかりにくいなあ。

・一方で、時間の流れる速度が読者に委ねられることを嫌う場合、状況の変化を微小にすることで、変化に付随して想像される時間の流れもまた微小なものとすることが可能となる。これを徹底していくと完全な等速度での制御が実現される。まあ一定の等速度であるだけであって、速度そのものを制御することはできない、のだけれど(読者の読むスピードに依存する)。

・微小時間しか経過しないようなコマの変遷を高速/大量/強制的に行うとアニメーションになります。

刃牙を例にとると、最強トーナメントの烈海王戦後半なんかは速度のコントロールがすごくて、もはや緩急だけで展開が完成していると言ってもいい。台詞を排し、攻防を極めて高速に描くことを基調としながら、転蓮華や足投げといった魅せるべきシーンでは一気に時間を停滞させている。

・もしかするとピンポンとか例に出した方が解りやすかったかも知れない(ドラゴン戦、サーブの際の「俺の名前は/星野裕だ/そこんとこ、ヨロシクッ!」を映像化するに当たっての処理とか、非常に参考になるのだし)。……刃牙のアニメ版? うーん……。

・ともかく、総括。認識の歪みをハックすることが漫画の強みだよね、というお話。

 

・ちなみに小説やノベルゲームにも上の議論は適用できて、というのは変化それ自体にヴィジュアルイメージを伴わず離散的な状況の変化を表現できる媒体であれば同様のことが起こりうるので、そういう意味ではFate/stay nightにおける(月姫からの)戦闘演出の進化には色々と思うところがありました、とか。

・上だと格闘漫画について書いてるけど、むしろ概念戦闘、哲学バトルとの相性のよさこそがこの種の認識の歪みの真骨頂のような気もしていて。剣戟のエフェクトを滑らかに表示しちゃったり、まほよ(未プレイ)では演出の映画への漸近とか誰かが言ってたりして、それって奈須きのこの資質の真逆を志向する変化じゃないかなー、という気がする訳です。

・のでDDD3巻を、はよ。

ヤンヤンつけボー(おいしい)

ヤンデレと奉仕概念を組み合わせると邪悪だし、ねえ? みたいなメモを発見したはいいものの、読解に暫くの時間を要し、これメモの意味ねえなとの結論に達した。理路を省きすぎというか未来の自分に期待しすぎというか。アホやでこいつは。

・なんでヤンデレといえば包丁なんですかーという叫びが日常的に聞かれる程度には、包丁とか持ち出さないヤンデレが求められているらしい。その割には今日も今日とてヤンデレは包丁を腰だめに構えたりしている訳で、いや意識の高い/或いは専門的なヤンデレ好きの間ではそんなことは無いのかも知れないけれど、少なくとも一般的に流通するヤンデレは包丁とか持ち出すタイプのが多いっぽい。(少なくとも、見かけの)受容と供給が一致してないのだから、たぶん処理的に楽な方に収束してしまうのだろう、と当たりをつけつつ考える。

・好きすぎて病んでしまう、という造形をどんどん純化させていった時、そこには無限の好意が実現する(そして現代とは純化の時代である―――たぶん)。で、その無限の好意をどう扱うか、で道が分かれる―――つまり、好意を寄せる対象の幸せを最上のものとするか、或いは自分の好意の成就をこそ目的とするか、という二択を迫られる。ここで前者には大きな問題があるため、その解決にコストを投入したくなければ後者を採用することになる、という問題系にしておくと割と納得しやすいかな。で、その問題とは、という段になり、冒頭の「奉仕概念」に接続する。

・相手の幸せを願う―――相手を幸せにする―――ために、自分と相手が結ばれればいい状況である、或いは結ばれればいいと信じられるような精神をしている場合は、何も問題はない。しかし実際には、そうでない状況が存在しうるし、自己評価の厳しい、クレバーなヤンデレも存在するだろう。自分と結ばれない方が、相手にとっては幸せである。そんな恋を前にして、好意に突き動かされた少女は何を想うか。……そう考えると、ある種の暴力性、思い込みで相手を測れる/自らの願望を行動に移せる身勝手さというのは、心を壊さないための資質である、と見做せはしないか。

・つまり、短絡的な行動や身勝手な妄想を封じられたヤンデレ、というキャラ造形は、あまりにも詰んでいるため、扱いが極端に難しくなる、ということ。……本当に?

 

・という感じの仮説に沿ってSSとか書いてみたけど、うまいこと動かなかった。積み重ねのないヤンデレは弱いよなー、とか(短編でやることではない)。

・少女、と書いたけどもちろん少年でもよいはずです(論理上は置換可能)。が、包丁でズッシャーとかやってくる類のアレを男性に担わせると途端に暴力のえげつなさが強調されてヤバい―――ハルヒ的な物語を全員TSさせた時のようなヤバさが顕現するので、たぶんあんまり好まれない。関係性が含む暴力性を女性に担当させることで隠蔽し享受する我々、とか書くとすげえ禍々しくていい感じに死にたくなりますね。

世界とセカイと人とキャラ

・いまさら某ブログの存在を知ったので、気になった話題に空中反応。こういう経緯で知るというのも悲しいことだけれど。ネットストーカー的素養が足らんなあと最近よく思うところです。

・創作において、理由なく人間が人間に惚れるのは非常に願望充足的かつ作為的な話運びである、という認識は、少なくとも後者に限っては間違いであり、端的に論理の転倒である。前者についても言いたいことはあるけど、とりあえず措く。

・能力や環境を勘案して必然的に結ばれたと見做せるような交感こそが物語的であり、作為的(負の意味ではなく)であり、創作的である。たとえば「優柔不断な男性が理由もなく美少女に惚れられて」などという言い回し(いま作った。対象を想定した揶揄ではない)には、人間は容姿や人格に応じた相手と結ばれるはず、という認識が潜んでいる。だが、その種の純化された世界、必然で全てが動く世界をこそ創作は志向してきたし、その裏にはこんな筈じゃなかった世界の不条理さへの抵抗、条理への意志があったのではなかったか。

・つまり、物語と実世界とで、そこに向けるべき認識が捩れてしまっている、ということ。こういう認識が流通しうる理由は……なんだろう。識者に丸投げしようか(最低)。

 

・脱線。ひとつのシステムとしての/或いは制度としての「人間」の単純さ、ちょろさについて描いてきたのがある種のSFだったよね、とか。認知あるいは脳に関する研究の賜物なんだろうなーと思う(かつて外宇宙へと想像の翼を広げていった最先端のSFが、内的世界を探求する所へと帰着した、というのは何だかロマンチックな話じゃありません?)

・そのような認識において、だがしかし、と人間性の聖域を見出そうとする意志にこそ、惹かれる。そういう文脈で最果てのイマがすごい好きなんですよ、と自分語りしておいて一旦終了。