ローキックされたいお兄ちゃんたち~

・某氏に強烈プッシュされていた『とっぱら~ざしきわらしのはなし~』をコンプリートした。以下備忘録。

・妖怪を扱う作品において、妖怪と人間とをどう対比しているか、というのが個人的には最も気になる問題だったりする。……妖怪という存在をどうやって人間と一緒の世界に落とし込むか、その処理には、人間をどう捉えるかという意識も伴う。鏡のように。

・とっぱらのそれは、妖怪という存在の、規定が実存に先行しているという設定―――つまり人間によって想像された妖怪としての性質がどうしようもなく先行していながら、一方で人間同様の自我を持つ者としてもある、という設定に根差している。単なる機能として怪異を起こす存在ではなく、さりとて自由に己の能力を選択/或いはその行使の有無を選択できるものでもない。人間に近い自我を持ちつつ、一方で逃れられない妖怪としての性質を抱えながら、長い時を生きる者たち。

・そんな設定だからこそ、長生きの妖怪ほど生き方と能力とに纏わるしがらみを持っている。のだが、イソラさんはその点、無垢である。成長していない、汚れを知らない、擦れていない、という意味ではなく、生来、本質的に無垢なものとしてある。そんな彼女との交感に際しては、だから問題は内在しない。彼女にも圭治にも葛藤はなく、だから終盤の物語が河童の棲む川と人間との、環境の問題にシフトしたのは自然なことだった。このルートにおける圭治が全ルートの中で最も強く己の進路を意識することは、非常に尊い結論だったように思う。変わらない/変わらなかった彼女との約束を果たすために、変わることを決意する物語。

・あと幸子ちゃん。疫病神をヒロインにする、という選択。本質的に人に害なす存在の恋。趣味が悪いと言われてしまえばそれまでなのだが(物語はキャラを不幸にして作る、とはよく言ったものだ)、個人的には妖怪を扱うなら盛り込んでもいい要素だよな、と思う。あと個別以外のルートでの冷静な立ち回りが非常に格好良かった。主人公のカウンターとして、外部の視線として在ってくれる、そのありがたさ。

・籐花さんに関しては、『あやかしびと』の某ルートがちらついてしまい、どうにも。いやあのルートもあのルートでうしおととらがちらつくのですが。そういう風に読み替えることができるのかー、というのは少なくとも感心するポイントではありました。

シュールギャグを指向するのがよさそうだが

・『食戟のソーマ』が展開読めなくて面白いなーとか。どこも向かずに死ねる可能性も相変わらず保ったまま、という印象ではあれ。

・勝負を題材とした時、主人公の成長やそれによる逆転を配置せずとも、面白い展開は成立しうる。つまり、勝利の判りきった展開を、僕たちは楽しむことができる、ということ。

・同じ料理漫画で言えば、『ザ・シェフ』や、究極至高の対決が絡まない時の『美味しんぼ』などがそうで、そこでは主人公の作る/或いは紹介する料理によって人情話や喧嘩の仲裁、何がしかの風刺といった物語が展開される。その際、読者は主人公の給した料理が驚きを以って賞味されるであろうことを知っている―――知っていながら楽しむことができる。つまり、勝つことは前提であり、「どのように勝つか」だけが興味の対象とされている。

・敗北や主人公の成長がキーになる話もあるけれど、本筋とは余り関係ないので措く(成立「しうる」―――全称命題ではなく、可能性さえ提示できればよい)。

・ではソーマは? と考えると、これがどうにも難しい。料理学校を舞台にした時点で「食通気取りの人間をブチのめす」「問題を抱えた人間に食を通して助言する」って展開は非常にねじ込みづらくなっているはず。あと同年代のキャラクタを同時に同じ場所に集める場としての「学校」がうまく機能しないっぽい設定なので、学園もの(ラブ)コメとしても舵取りが難しそう。ベタに画面だけ見てると見開きの破壊力にカタルシスを求めてる? とか感じるんだけど、そう遠くない内に無理が出てくるだろうし、展開の方でもっと動きが出てこないと何とも言えないなあ。

・といった感じなので、今後の動向が気になるところ。

世界を糊塗する心的領域

・「なぜ邪気眼中二病と称される振る舞いを含む)は駄目なものとして扱われるのか?」という問いから始めたい。

邪気眼の悪さは、たとえば周囲との軋轢を生むこと―――会話が成立しない、団体行動が乱される、などといった―――や、たとえば経験者の感じる恥ずかしさに起因した親切心/同族嫌悪、といった観点から説明される。

・しかしながら、これらの問題をあまり備えないような邪気眼について想像することは、そう難しくはない。周囲の理解や、痛さへの自覚、そういった要素を導入することで、立ち回りレベルで問題のない邪気眼キャラクタは成立しうる。

・そこに悪を見出すためには、「正常な人間」という規範からの偏差や、或いは成熟/未熟といった評価軸を採用するような視点の導入が必要となる。これら評価軸がそのまま通じる人間相手に作品を書くのであれば、何の問題もない。ただ、常識という概念の根拠の乏しさ、恣意的な運用のされ方を鑑みると、それは端的に邪悪であり、差別的である。

・邪悪でも差別的でも面白ければいいのだが、僕は普通につまらないとも思う。致命的なまでに。

・そこで、と各論に繋ぐ(たぶん)。今日はここまで。

 

ゆるふわ

・ぽかレイをアレすることによってシンジくんとゲンドウを同じ状況にした、という指摘に「だからそれに自力で気付けないからアホだっつーのよ……」と思った。自分アホですねというお話(大切なものが脳に備わっていない)。

・「父さんは大事な人を失ったことがないからそんな事が言えるんだ!(うろ覚え)」からの「子供の駄々に付き合ってられん(うろ覚え)」、という流れを意識すると非常に重要な構図っぽい。

・あと考慮しとくべきなのはユイの思惑とかなー。旧劇版の時点でも碇ユイは自分の意志で初号機に残り(旧劇における冬月先生の台詞参照)、男二人に自分の計画を遂行させた(こちらは未確定かしら)のだけれど、新劇版だともっと直截な意図を感じる。ダイレクトエントリーの絵面が異様に猟奇的だったせいで変に意識させられてるだけかも知らんけど。

・ゲンドウが碇ユイの思想―――人間をエヴァに乗せて永遠を得るというプランに惹かれたのか、そういうの抜きで彼女の人格や容姿に惚れたのかは描写されていない筈だけれど、後者だとすると献身的ってレベルではないよなー。

・そういう諸々を考えて「済まなかったな、シンジ」の台詞を聴くとすごい感じるものがあるというか、僕は旧劇であのシーンが一番好きです。結局はシンジとゲンドウの話として全てを読みたいと思ってしまう。今もなお。

 

・ちなみにゼーレの思惑はヒトを生命のスープに還元し単一生命とすることで、ユイの計画が神になることであるなら、彼らの計画は神の身許に還ること、とか言える(剥奪された生命の実を再び獲得し、悪魔に与えられた知恵の実を返上し、エデンで未分化かつ永遠の命を生きるということ)。ガフの部屋が開くぞ、ってのは確かそういう意味で、でも結局はシンジ君が他者性を望んだことでA.T.フィールド=ヒトを象る檻は復活した、という流れ。

悪の華

藤田和日郎作品で「生まれつきの邪悪」って見たことがないな、とか思ったのでメモ(月光条例はまともに追えてないので論理に穴があるかも)。

月光条例を考慮するまでもなく多分穴だらけ。はい。

・うしとら、からくり、スプリンガルド、月輪について考えると、悪役は精神的に未熟である(世界が自分の思うままに動かないことに我慢ならない)か、或いは在り様のレベルで他者との触れ合いが不可能であった(環境が邪悪さを規定する―――白面やオートマタ達のように)ものの二通りに分類できそうな気がする。もちろん後者が未熟でないとか前者が環境に恵まれてないとかいった話ではなく、ある程度の重み付けによって二軸でマッピングできる感じの分類として。色々と取り落としてそうなモデル化でアレだけど、まあ(僕の)簡単のために。

・精神的に未熟なまま力を手に入れてしまったフェイスレスを旅を通して成長した勝が倒すとか、人間と妖怪の間をさまよう潮が白面の孤独に共感を示すとか、実に精確で、さすがだなーといった感じではある。中盤以降の勝プッシュは実際鬱陶しかったけど、最終決戦に関してのみ言えば、鳴海にーちゃんが倒しちゃったら駄目なんですよね、とかそういう。

・論破し屈服させることではなく、寄り添い、感情的に救うということ。完成したヒーローとしての鳴海にーちゃんには出来ないことで、勝が弱さを(限定的に)克服することで始まった物語は、彼が弱さを知るがゆえの救済によって終わる。あと身も蓋もない話をすれば、力のある子供をより強い大人がブン殴って黙らせてもカタルシスないよね、という展開上の話も絡んでくるかな(『惑星のさみだれ』の優れた部分について敷衍可能と思われる)。

・……などと褒めておきつつ、一方で、じゃあ救いようのない悪について藤田和日郎はどう処理するんだろう、という疑問が生まれる。つまり、環境や未熟さで説明のつかない、改心も成長も望めない、本来的に異種とでも呼ぶべき生き物のことなんだけど。悪と呼ぶことすら憚られるほどの断絶を前に、人の情を教えてあげることも、成長を促してあげることもできない相手に、何ができるのか。

・更に言えば、その悪が人間だとして、彼は生まれてきてはならなかったのか、って話になっちゃうよねーとか。生まれつきの邪悪は、果たして存在を認められるべきなのか?

・認められるべきだ、という前提から逆算するような姿勢のが好ましいなーと(この種の問題に関しては)個人的に思うところです。

魂の座

・『おたく☆まっしぐら』の善さは、容赦のないほどに精確なところだと思う。

・完璧な「おたく」は恋愛などしない。信仰や姿勢の問題でもあろうけれど、それ以前にリソースの無駄だからこそ、人間との恋愛には積極的に関わらない。……というのは、作中の主に前半で描かれていたことで(現実のオタの姿と比較したり現実のオタの定義論に持っていく必要はあんまりない―――作中で遣われた言葉と論理だけを問題にするべき)。そこを外さずに、しかし恋愛を描くギミックを作中通して違和感なく設置する手腕こそが恐ろしい。何も間違えていないからこその強度。

・たとえば涼香ルートの展開とか。

ファジー言及

・人間は人間として生まれてくるんじゃなくて、生きながら人間になっていくものなんだよ、ってARMSに出てきたすごい婆ちゃんが言ってた。生物種としてのヒトと在り方としてのヒトとの対置、と纏めていいのかしらん。

・後天的に獲得されるべきヒトとしての資質を決定するのはヒトとしての社会の在り様であり、ヒトとしての社会の在り様を決定するのは個々のヒトの在り様である。要素と総体とが相互に規定し合う螺旋構造を形成しながら、世界は進む(―――たとえば、社会の変質によるヒトの定義の散逸/変遷を描いたのが最果てのイマだろう)。

・人退は5巻までしか読んでないのでどこまでこの種の問題意識が押し進められたのかよく知らないんだよなー。たとえば登場人物が名前で互いを呼び合わないという事実について、もちろん描写を制限した結果にすぎないと見做すこともできるけど、名前というラベリングが必要なのはどのような社会であるか、とか考えると文化人類学っぽい仕掛けの一環として読めそうな気がしません?(文化人類学って言っておけば格好がつくと思っているオタクの人)

・話は飛びますが、たとえば麻枝准の描く人々は人間として生きることにものっすげーコストを払ってるように見える/或いはそのコストにも関わらず人間のフリすらできてない、ように見えることがあって。ロミオのそれが限定的な状況で(SF的なギミックを用いて)人間という制度の恣意性を暴くものであるとするなら、何のフックもなしに人間の自明性を疑うだーまえは別方向にヤバいよねーとか……ごめん印象論。

・更に話を飛ばして中二病(つーか邪気眼)。自己をキャラクタ化するという意味ですげー強いのみならず、上記したような人間の在り方の恣意性/人間として在ろうとする意志の問題に振る舞いレベルで常に触れねばならないあたり激アツです(文章が乱れてきた!)。

・「なぜ僕らは中二病患者のごとく自己を仮構することができないのか?」という疑問、或いは煽り。

・だからインターネッツ上で邪王炎殺黒龍波を撃ち合えるような世界線に収束させられなかった時点で僕たちは圧倒的に負けてるんだよ! みたいな与太にあと5手くらいで繋がるかなー。